Category: Japanese Culture 日本の文化

  • 照姫まつり

    Teruhime making a speech in Finale

    石神井公園で開かれた「第21回照姫まつり」に行ってきました。

    (more…)

  • 節分です

    A long sushi roll for setsubun
    昨日は節分なので、恵方巻を買って帰りました。ここ東京でも恵方を向いて巻き寿司を丸かぶりする習慣ができてきたようで、スーパーでもコンビニでも恵方巻がいっぱい売っていました。ちなみに今年の恵方は南南東だそうです。
    節分といえば「鬼は外、福は内」の豆まきが有名ですが、豆をまかれて追い出された鬼たちはどこへ逃げるかというと、奈良・吉野の金峯山寺・蔵王堂にかくまわれるんだそうです。吉野の開祖・役小角が鬼を愛し、追われて逃げ込んできた鬼たちを鄭重に迎え入れたからだと言われていますが、そういうわけで、蔵王堂では「鬼は内、福は内」と言いながら豆まきをするんだとか。
    以上、トリビアでした。

  • Inukai memorial exhibition / 犬養孝生誕百年回顧展

    Takashi Inukai exhibition

    日本文が後ろに続きます。

    This morning I visited Daikan’yama i-Studio to see the exhibition commemorating the 100th anniversary of the birth of Takashi Inukai, a leading scholar in the field of Man’yoshu. For those of you who don’t know it, Man’yoshu is Japan’s oldest collection of tanka poems created more than 1,300 years ago by emperors down to aristocrats and unknown common people nationwide. Inukai was an authority on the studies of the ancient poetry for over 50 years, teaching at many schools including Osaka University and Konan Women’s University as a professor.

    According to the biography displayed in the exhibition room, he was born on April 1, 1907, in Tokyo. His first encounter with Man’yoshu was in the classroom of the high school in Kumamoto. Through the teachers of the high school he was greatly attracted by the beautiful words, melodious rhythms, and expressive images of the 4,516 verses.

    After graduating from Tokyo University in 1932, he got a teaching job at Kanagawa Prefectural Yokohama Dai-ichi Junior High School, or Jinchu, where he taught for ten years. In 1942, he moved to Taiwan and became a professor of Taipei High School, teaching many students including Lee Teng-hui, who became a Taiwanese president 45 years later.

    When the WWII came to an end in 1945, the Island of Taiwan belonged no longer to Japan, and accordingly he lost his teaching job. He returned to the mainland and landed at Wakayama. After that, he started living within the Kansai district. It was very convenient for him, because the area had plenty of places where the Man’yoshu verses were created and it could help his profound research of it. When he got a job at Osaka University in 1950, he made up his mind to walk around the places where each poem was sung to help him understand it more deeply. His idea impressed the students very much. They proposed him to make a trip to those places to understand the feelings of the ancient people. He agreed. He and his students went for more than 250 trips all over the country for almost 50 years, until he died in 1998. The total number of participants of those trips reached more than 40,000 (including me).

    His contribution to the studies of Man’yoshu affected many people very much. In addition to writing papers and books as a specialist, he made his best efforts to spread it to the general public who aren’t familiar with pedantic literatures. He put his own melodies to each poem and sang it to the people to make it suit the popular taste. His “propagation” of Man’yoshu had influenced many artists, including Peggy Hayama, a singer, and Machiko Satonaka, a cartoonist who wrote Tenjo no Niji, a comic describing the life of Empress Jito.

    His achievements was the object of public admiration in all directions. In 1978, he received the Order of the Riging Sun, Gold Rays with Neck Ribbon. The following year he was invited to the Imperial Palace and showed a tanka in front of Emperor Hirohito. Also, he gave a lecture on Man’yoshu to Hirohito on the top of a hill in Asuka, Nara, on December 4 that year. He was qualified as a person of cultural merit in 1987. The Order of the Sacred Treasure, Gold and Silver Star, was posthumously conferred on him on October 3, 1998, the very day that he passed away.

    I have ever met him on our way of the trips by Osaka University students. He was very frank, friendly and humorous. Although the term that I was in touch with him for is much shorter than that of his life, I feel that I am sharing very many memories with him.

    I uploaded the pictures of the exhibition to Flickr.


    今朝、代官山iスタジオで「犬養孝生誕100年回顧展」というのをやっていたので見に行ってきました。犬養孝は、万葉集の研究の権威で、大阪大学や甲南女子大学などの教授として50年以上にわたって研究にたずさわってきた人です。

    展示室にあった年譜によると、犬養孝は1907年4月1日に東京で出生し、熊本の第五高等学校にいたときに初めて万葉集と出会い、その美しい言葉、躍動的なリズム、表現力豊かな心象風景などに魅惑されたといわれます。

    1932年に東京大学を卒業後、神奈川県立横浜第一中学校(神中)に奉職し10年間教鞭をとりました。そのあと台湾に移って台北高等学校の教授となり、数多くの学生を教えました。教え子の中には、後に台湾総統となった李登輝氏もいたとのことです。

    終戦後、台湾は日本の領土でなくなったので、帰還船で内地へ帰り和歌山に上陸しました。そして、万葉集の歌の宝庫である関西に居を構え、1950年には大阪大学で教えることとなり、そのころから、万葉集を理解するために実際に現地を歩くという研究スタイルを確立させていったそうです。その考え方に学生たちは共鳴し、万葉集の故地を歩くツアーを提案しました。これは「大阪大学萬葉旅行」として、犬養が1992年に死去するまで50年近くにわたって250回以上も続けられました。この旅行の参加者は延べ4万人以上で、私もその中に含まれています。

    犬養の万葉集研究は多くの人に影響を与えました。論文や著書を書くほかに、衒学的な学問としての文学になじみのない一般層に対して万葉集を広めることにも努力しました。万葉集の一首ずつに独自の節をつけ、それを人々の前で朗誦することにより、万葉集を一般向きのものとしました。犬養の“布教活動”は多くのアーティストに影響を与え、歌手のペギー葉山や、「天上の虹」を描いた漫画家の里中満智子も、すべて犬養孝が原点です。

    これらの業績は多方面から評価され、1978年には勲三等旭日中綬章を受章、翌年の歌会始には宮中に召され、昭和天皇の御前で歌を読み上げられました。またその年の12月4日には、奈良県明日香・甘樫丘の上で昭和天皇をお迎えし、御進講を行いました。1987年には文化功労者に叙せられました。そして、死去した1998年10月3日には、正四位勲二等瑞宝章が追贈されました。

    私は学生のときに萬葉旅行でこの犬養先生にお会いしたことがありますが、非常にフランクでフレンドリーでユーモラスな方だった記憶があります。実際に犬養先生と接した期間は犬養先生の人生に比べればごくわずかの期間なのですが、非常に多くの記憶が残っているような気がします。

    回顧展の模様をFlickrにアップしました。

  • Being a Wikipedian

    A few days ago I made an account of Wikipedia to write some articles in Wikipedia—especially Japanese ancient history stuff.

    It’s very exciting that I can leave my work in the ever-lasting place of the world. I’m trying to move the text that I’ve written for many years to Wikipedia, because by doing so I can give my knowledge to more people than by keeping it in my own website.

    Of course I know Wikipedia isn’t perfect—everybody, even those who are not experts, can write or modify articles and it may proble that Wikipedia’s quality is lower than that of traditional encyclopedias like Britannica. But I don’t care if it’s perfect or not. The point is that everybody has an opportunity to contribute to the world by exchanging his own information.

  • 犬養孝先生墓前命日祭

    万葉集研究の第一人者で、1998年10月に亡くなられた故・犬養孝先生の生誕100周年を記念して、東京・谷中霊園にある先生の墓前にて命日祭があったので参加してきました。

    もう、この業界の重鎮の方々ばかり。70~80人ぐらいが墓前に集ってました。

    仏教ではなく神道の家なので、神職の方が来てひととおりの儀式を行い、そのあと参列者一同がかわるがわる墓前に進み出て、玉串奉奠。

    玉串奉奠なんて今までやったことなかったんで、前の人の手つきを見ながら適当に見よう見まねで捧げてきました。

    Inukai centennial ceremony

    命日祭が終わったら、上野の駅前の中華料亭で昼食会。普段、横浜中華街の路地裏の怪しい中華料理しか食べてない身としては、過分なほどの超高級料理をいただいてきました。

    出席者はだいぶ年配の方々ばかりだったので量はあまりなかったですが……。

    まあ万葉集関係のキーパーソンの方ともお知り合いになれたし、非常に意義のある会でした。

    Gift for guests

    昼食会参加者限定の記念品。犬養先生の筑紫取材ノート、毎日放送の番組録音CD、絵葉書etc.

  • 照姫まつり

    Teruhime, Toshima Yasutsune and his wife
    石神井公園で毎年春の恒例「照姫まつり」が開かれました。
    去年は雨で照姫行列がお流れになってしまったので、実に2年ぶりの照姫行列です。

    (more…)

  • 駅のホームにて。

    12192006010.jpg

    駅係員用よびだしインターホン。

    「緊急にご用の方 または不審なものを発見したときは、よびだしボタンを押して 駅係員とインターホンでお話しください。」と説明が書いてあります。

    ラッシュ時以外にはホーム上に駅員がいないから、何かあったときにはここで呼び出せるようになっているのですが、下のほうにオールひらがなで上と同じメッセージが書いてあるのは、何の意味があるんでしょう。小さい子にもわかるようにってことなんでしょうか。「ふしんなもの」なんて、小さい子に意味がわかるのかなあ。。。かと思えば、「発見した」が「みつけた」になっているし。。。よくわからん。分かち書きもなしに全部ひらがななんて、かえって読みにくいし、子供だからってあまりにも馬鹿にしすぎだろ。。。

    せめて小学校低学年で習う漢字ぐらいは使おうよ。

    「きん急に ご用の 方 または あやしい 物を 見つけた ときは、よびだしボタンを おして 駅係員と インターホンで お話し ください。」

    みたいにさ。それで、漢字にルビでも振っとけば完璧だ。

    やっぱり、漢字がないと日本語は不便だ。

    なんて言うとカナモジカイの人に怒られるかな?

  • 那覇探訪4~その他~

    まあ沖縄というのは生まれて初めて行ったわけですが、なにしろ日本であって日本でないような、不思議な国だという印象を受けました。

    まず街の作り方がまるっきり違います。本土の街は、鉄道の駅を中心にして、駅前に役所、銀行、デパートなどの主要施設ができていき、その周辺に住宅地が広がるという形態が一般的ですが、鉄道のなかった沖縄は、まず道路があって、ロードサイドに各種施設やショッピングモールを点在させる、というアメリカ式の街づくりになってるようです。なので当然、車がないとどこへも行けない、という状況で、私も何度となくタクシーのお世話になりました。まあタクシーはいっぱい流れてるし、初乗り運賃も本土に比べれば安いので利用しやすいのですが……。

    アメリカみたいといえば、道の広さや建物一つ一つの大きさに圧倒されました。特に新都心あたりの道路は走りやすそうで、車で生活するならだいぶ快適に過ごせそうです。

    人々の姓も沖縄独特でした。そこらのコンビニのお姉ちゃんや、ショッピングカウンターの店員さんの名札を見ると「与儀」とか「具志堅」とか「金城」とか「平良」とか「渡嘉敷」とか「宮里」とか、本土ではあまり見かけない姓が多かったです。

    気温は東京とあまり変わらないですが、湿度が亜熱帯特有のじとっとした感じで、すぐに汗がにじんできます。香港なんかもこんな感じだったでしょうか。ただ気温が33度を超えることはめったにないそうで、東京や大阪のように35度超えなんてことはないらしいです。そういえば赤道直下のシンガポールも、気温は32~33度ぐらいが上限だとか。

    (more…)

  • 那覇探訪3~沖縄グルメ~

    Goat flesh sashimi and goya champuru

    沖縄定番料理のゴーヤちゃんぷるー、そして、ヤギの肉の刺身。このヤギ刺しは1皿1500円と結構な値段がするんですが、まず東京では食べられないだろうから、奮発していただいちゃいました。臭味も全然なく、生姜やにんにくと一緒に食べるとこたえられません。

    ヤギといえば、ヤギの乳も飲んできました。牛乳よりも人乳に近くて、牛乳のような臭みも全然なく、アレルギーが出にくいと好評のようです。確かにこれなら毎朝飲めるかな~と思いました。

    (more…)