Category: Yuki’s Diary 日記

  • トワイライト・サムライ

    TV地上波で初公開されたアカデミー賞ノミネート映画「たそがれ清兵衛」(TBS 21:03~)を見た。

    真田広之演じる、妻に先立たれ、内職をしながら幼い娘二人と年老いた母親を養う貧しい平侍の物語。ある時、その剣の腕を買われ、ある人物を殺すよう藩から特命を受ける。その人物もまた剣の達人。果たし合いに行けば逆に命を落とすかもしれない。残される幼い娘たち、そして密かに思いを寄せる女性(宮沢りえ)との出会い、別れ、そして再会……。それぞれの人物の葛藤や心の動きが、抑制のきいた演技の中にもしっかりと描かれていた。最後の岸恵子の独白と井上陽水のエンディングテーマが心を搏つ。

    決してハッピーな結末ばかりでもなかったのだが、見た後で心温まるものが残った。きめ細かで美しい映像の作りで、いかにも日本人の琴線に触れそうなストーリー展開だったが、アカデミー賞の選考で一、二を争ったほどなのだから、感動したのは日本人だけではないのだろう。良い作品は誰にとってもやはり良いのだ、と再認識させられる映画だった。

    たそがれ清兵衛 公式サイト
    Twilight Samurai Review

  • 夢一夜

    朝の通勤電車。僕はつり革に両手でつかまって立っていた。

    左隣には、通学中の女子高生が立っていた。僕はその女子高生とふとしたことで目が合ってしまった。肘か何かが当たったのかもしれない。すると、その女子高生は急に顔色を変え、怒ったような顔をして電車の運転席に向かっていった。僕は慌てた。ひょっとしたら、あの女子高生は僕のことを痴漢か何かと勘違いして、乗務員を呼びに行ったのかもしれない。このままだと痴漢の濡れ衣を着せられてしまう!

    僕は前に立っていたオジサンに目撃者になってもらおうと考え、「今、僕、あの子になんにもしてないですよね! ずっと両手はつり革につかまってたし、大丈夫ですよね?」と話しかけた。いざというときはこの人に証言してもらおうと思った。オジサンは「ああ、そうだよ。大丈夫だよ」と同意してくれた。

    しばらくして、運転席から乗務員を連れて女子高生が戻ってきた。乗務員はすごく険しい表情で僕のほうを見ている。絶体絶命。でもいざというときの目撃者も確保できたし、あとはなるようになれ、そんな覚悟を決めると、乗務員と女子高生の2人は、急ににこやかな表情に変わって僕に親しげに話しかけてきた。どうやら誤解が解けたらしい。ふーっ、危ないところだった。

    ……そこで、目が覚めた。寝汗をびっしょりかいていた。

    その日の朝、3人の警察官にわきを固められて、ズボンの背中のところをがっちりと掴まれたまま連行されていく若い兄ちゃんを見た。痴漢をやったんだったら、たのむから氏んでくれ。オマエみたいなヤツのせいで、こっちは毎日肩身の狭い思いで電車に乗ってるんだ。僕は本気で、そう思った。

  • 乳を揉む店?

    王子駅の近くにて。
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    「マッサージ施術室 指圧 乳揉み」って……

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  • 鼻血を出して思うこと

    鼻水が出てきたような感じがしたので、急いでティッシュを取り出して、鼻をかんだ。ティッシュを鼻から離してみると、ティッシュが真っ赤な血に染まっていたのである。

    毎月、血を見ていて慣れている女性たちと違って、男性は血を見るとたいていうろたえるものだ。それが自分の身体から出ているものであるときは、なおさらだ。僕はあわててトイレに駆け込み、自分の顔を鏡に写してみた。鼻の中から血が溢れ出ており、一向に止まる気配がない。鼻血が出たときには上を向いてはいけないらしく、鼻をつまんだまま下を向いていなければならない、と救急法を習ったときに聞いていたので、上を向きたい衝動を必死で抑えながら、血が止まるまで小鼻をつまんでじっとしていた。

    鼻血なんて出したの何年ぶりだろう。僕の記憶では、もうかれこれ20年ぐらいは鼻血と無縁だったんじゃないだろうか。どうして鼻血が出てしまったのか、思い当たるふしはまるでない。僕はさっそく、Webで鼻血について検索してみた。

    鼻血の原因にはいろいろあって、爪などで鼻粘膜を傷つけたり鼻を強く打ったりなどの外的な要因のほかに、のぼせたり、病気などが原因で起こることもあるらしい。鼻血が出る病気――いろいろ調べていくうちに、僕は、ある最悪の可能性に思い当たった。

    白血病――白血球が異常に増えるという、いわゆる「血液の癌」といわれる病気である。血液の成分として主に赤血球、白血球、血小板というものがある。赤血球は血の赤い色のもととなっていて、体内を循環することにより酸素を全身に運ぶ役割がある。白血球は血液中に入ってきた細菌やウイルスを殺す作用があり、血小板は血液を凝固させて出血などを止める働きがある。白血病は、そのうちの白血球が異常に増殖する病気である。正確には、白血病細胞とよばれる血液の腫瘍細胞が増加して、正常な造血機能を損なうのだそうだ。

    古代ギリシャの時代から既に記録されている病気だそうだが、この病気にかかるとどうなるかというと、白血病細胞が血液中に増えすぎることによって血液の循環が悪くなり、脳や肺がつまる、いわゆる脳梗塞や肺塞栓になったり、腎臓に血液がめぐらなくなることによる腎障害が起きたりして、結果的に死に至ることになるらしい。

    もっとも、今では治療法が進歩していて、このように白血病細胞が増えすぎることが直接的な死因になることは少なく、むしろ白血病細胞が増えて正常な白血球が減ることによって細菌に感染しやすくなり、それが全身を回って敗血症などを起こしてそれが致命的な結果をもたらすことが多いそうである。

    ドラマなどで、白血病にかかってしまったシーンを表現するのに、鼻血が止まらなくなる、という場面がよく出てくる。白血病にかかって白血病細胞が増えると、通常あり得ない、血管の中で血液が凝固しようとする現象が起きるそうで、そのときに血小板が使われてしまうのだそうだ。それによって血小板が少なくなってしまい、本来の役割である、出血時に凝固して止血するという働きが十分果たせなくなる。その結果、鼻血が止まらなくなったり、歯茎から出血したりするのだそうだ。

    白血病には急性白血病と慢性白血病とがあり、急性白血病の中でも、白血病細胞の種類によって急性骨髄性白血病と急性リンパ性白血病に分けられる。成人になってからかかるのは圧倒的に急性骨髄性白血病で、急性リンパ性白血病は小児に多いらしい。急性白血病になると、貧血や高熱、出血などの症状が急激に現れる。

    慢性白血病も同じように慢性骨髄性白血病と慢性リンパ性白血病とがあるが、ほとんどは慢性骨髄性白血病だそうだ。慢性骨髄性白血病は通常は自覚症状がなく、健康な人とほとんど変わらないように見えるが、この病気になると数年のうちに必ず、急性骨髄性白血病とまったく同じような症状が現れるとのこと。これを「急性転化」と呼び、ひとたび急性転化するとその治療は極めて困難で、半年以内にほとんどが死亡するとのことだ。

    さて、僕が今かりに死んだとしたら、どうなってしまうのだろうか。遺品整理で部屋の中の恥ずかしい私物を遺族に見つけられては死んでも死に切れない。クルマのローンも残っているし、その他もろもろの身辺整理もまだである。ハテ困った――。

    そんなことを考えながら、夕食を食べた。食べながら、そういえば昨日の夕食は脂トロトロのチャーシューメンにニンニクぶち込んで食べたっけ、と思い出した。その前の日はウナ重だった。よくよく考えてみると、最近の僕の食事は精のつくものばかりだったのだ。あり余って吐き出しどころのない精力が、鼻から吹き出てきたに過ぎなかったのだ。

    ようし、今日は早く家に帰って爆発させるとするか。

  • リバイバル?

    通勤でいつものように丸の内線に乗っていると、向かい側のホームに、全面赤い塗装で、その横っ腹の部分に白い帯状のラインが引かれており、その帯の中に金色の波状の細い線が上下対称に2本引かれている、15年ぐらい前に見たような昔懐かしい電車が来た。昔と違うのは、車体にロッテのガーナチョコレートの広告があること。なんでもこれは丸の内線開業50周年記念としてロッテとタイアップしているものらしい。

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  • 続・ものを書くこと

    NHKのBS2「週刊ブックレビュー」に、先日芥川賞を受賞した金原ひとみさんがゲストで対談していた。

    NHKなので、あまり過激なことは言わず、多分にぶりっ子風の話し方をしていたが、対談全体を通して感じたのは、彼女もまた、「ものを書く」ということに魅せられた一人のようだ、ということだ。

    こんなところでちょろちょろっとゴミみたいな文章を書き散らしているだけの僕が語るのもおこがましいのだが、ものを書くというのは、以前もこのブログで触れたように、一番手っ取り早くコストのかからない表現手段で、わりと誰にでも始めやすい。金原さんも、たまたま書くことが好きで小説やら短編やらを書くようになり、そこへ天性の才能がジャストフィットして、ついには大きな花となって開いたということだろう。「一生、書くことはやめないと思います」と語る彼女。人生としてはこれにまさる幸せはあるまい。

    あまり若いうちから「物書き」をやるのはよくない、という意見もある。書くという仕事は最高に集中力を要求される職業で、その集中力を何ヶ月、何年という長期間、維持しなければならない。そうやってずっと集中状態で執筆に専念し、やっと作品を書き上げたあと、それまで出っぱなしだったアドレナリンがおさまらずに、ハイなままになってしまって、それを自分でコントロールできなくなってしまうことがあるらしい。そうなると、精神的なバランスが崩れてしまう。

    僕もこのブログを夜中に書いていると、だんだん目がさえてきて書き終わった後も眠れなくなったりすることがある。たかだか数千字程度の短い文章を書いてさえもそうなのだから、ましてや長編小説など書く作家さんなどは、こんなものではなかろう。

    そして、集中状態をリセットするために、アルコールを入れたり、クスリに頼ったりすることになり、それでもおさまらないと、いよいよ心の病を発することになる。そういえば、昔から作家といわれる人の自殺率は半端じゃない。

    金原さんは、「書くことは小さいときから自分の生活の一部で、いわば日課のようなものだ」とさらっと語る。自分の「こころ」に自分で折り合いがつけられるというのは、相当の精神力の持ち主だと感心させられる。

    彼女は小学生時代に不登校に陥り、そのあとは歌舞伎町を徘徊してパチスロに明け暮れ、配管工の彼氏と同棲して今に至るとのこと。「2ちゃんねる」風に言えばまさに絵に描いたような「ドキュン」と言えるのかもしれないが、物書きというものは大体において破天荒なものである。僕のようにどちらかというとボンボン育ちで、レールの上をある程度外れずに生きてきたような人種からすると、彼女たちのような自由な生き方がある意味、羨ましかったりすることもある。

    「がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃうし、何でも流せる人っていいなあ……」と悪びれず言ってしまう態度に反感を持つ向きもあるようだが、若いからこそ許される、20歳の無邪気な発言と鷹揚に構えたい。これから、密度の濃い体験をいろいろ重ねて、人間としての深みの備わった作品を何十作も出してほしい。

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  • 春一番

    上野に出かけていたのだが、風がきつくてコンタクトレンズをはめた目はとても開けていられなかった。

    春一番」 日差しが増してくると、ユーラシア大陸の地表面が暖まり、大陸の寒気団が弱まって西高東低の冬型の気圧配置がくずれ,寒気の吹き出しも少なくなってくる。日本海上では温帯低気圧が発生し、発達しながら北東に進むようになり、発達した低気圧に向かって日本列島上空を最初に訪れる南よりの強風のことをこのように呼んでいるそうだ。1859年(安政6)2月13日に五島列島沖に出漁した壱岐郷ノ浦の漁師53人が強い突風にあって遭難してから、このように呼ばれるようになったのだが、春を迎えるためには、避けて通れない自然現象だ。このあと三寒四温を繰り返しながら、本当の春がやってくる。

    考えてみると、今の日本経済の状況も、きわめてよく似ているのではないか、と考えるのである。日本経済の春は、近いのだろうか。

  • 夜伽草紙

    タイトルに特に深い意味はない。昔、僕のサイトに置いていたチャットルームの名前(チャットは夜のテレホタイムがメインだったから)を、なんとなく使ってみたくなっただけのことである。

  • ものを書くこと

    僕にとって、ものを書くということは、他のどんな表現手段――音楽や、絵画や、演劇や、映画などといった手段――よりも、一番手っ取り早く、easy-to-doな自己表現手段だと思う。何よりおカネがかからない。特にWebというメディアでは、最低限の機材とソフトウェアさえあれば、それがいともたやすく実現できてしまう。それに、口で言うとリアルタイムでやり直しがきかないことでも、書くのであれば、あとで推敲したり、編集したり、削除したりすることができる。

    僕はいままで、ホームページというメディアで情報発信してきた。それはWeb黎明期には個人の情報発信手段としては絶大かつ画期的なものであった。しかしWebという表現手段が普及し、Webにまつわる技術が長足の進歩を遂げるようになると、凝ったサイトを作るのにもお金をかけて稼動や工数を見積もり、プロジェクトチーム単位で動かさなければならなくなった。

    それでは、お金も何もない一個人は、どうすればいいのか。

    そこで、ブログという手段がここ1年ほどの間に急に注目を浴びるようになった。僕も今まではあまり知らなかったのだが、アメリカではブログが個人の情報発信の標準的なツールになっているらしい。ブログツールの日本語化の進歩に伴って、日本でも最近、にわかに脚光を浴びるようになっている。

    新しいもの好きの僕としては、使える技術は何でも使ってみることを信条としていることもあるし、こういう流れに遅れるわけにはいかない。ということで、ブログがどんなものか、にわか勉強を始めたのが今年に入ってすぐ。それから数週間、解説書と首っぴきになりながらようやく開設にこぎつけた。

    「ものを書く技術」を磨きたい――その気持ちを大事にして、毎日でも何か書けるように、ブログをいろいろ活用してみようと思う。