那覇探訪1~はるかなる琉球~

探訪、といっても早い話が会社の出張なんですけど、27日から29日まで沖縄の那覇に行ってました。

仕事のことはあんまり書くと社外秘に触れたりしてまずいので、仕事以外のネタを中心に。

まあ、那覇といえばまっさきに思いつくのはなんといっても世界遺産になっている「首里城」。琉球王国の国王が代々おわしました場所です。

ということで、首里城に行ってきました。

\沖縄都市モノレール「ゆいレール」。日本唯一の無鉄道県だった沖縄の県民の悲願が実って、平成15年に開業したものです。市街地をゆらゆら走りながら終点の首里まで行きます。

The Yui-rail Cockpit of the Yui-rail

運転手さんも「かりゆしウェア」を着て乗務。この「かりゆしウェア」ここでは既に正装として認識されているようで、いたる所でこの格好がみられました。タクシーの運ちゃんも、職場に出勤するサラリーマンも皆こぞってこんな格好でした。下はスラックスだったり、チノパンだったり、いろいろ。細かいルールはなく、皆「てーげー」に着こなしてます。そういう私も那覇のショッピングモールで1枚買ってきました。

モノレールは2両編成で、空港からの行き帰り客が巨大な荷物を持ち込んで大挙して乗り込んでくるので結構込みます。駅間走行中に車内アナウンスの合間に沖縄音階のメロディが鳴って沖縄情緒をかき立てさせてくれます。

那覇空港から30分ほどで首里駅に到着。といっても駅は首里城の近くではなく、駅から歩いて1キロほどあるようです。降りると、タクシーの運ちゃんが待ち構えていて、「首里城行くの?歩いたら25分ほどかかるし、タクシーならワンメーター(450円)で行けるから、乗ってきなよ」と半ば強引に勧誘してきます。私としてはせっかくの沖縄の街並みを歩いて堪能したいので丁重にお断りし、首里城までの道のりをテクテク歩いていくことにしました。

沖縄は日本の領土ではありますが、文化的には日本とは全く異質だと感じました。人々の姓から暮らし方まで、まるきり本土とは異なっています。九州に行ったときにも、異国へ来てしまったとは全然感じなかったんですが、ここ沖縄は、本土とは別の歴史的バックグラウンドを持つ場所だけあって、まったく異質の文化圏と感じました。

通りの家々にも、本土との違いがありありとわかります。
Houses of Okinawa
瓦の葺き方が違ったり、

Houses of Okinawa
平屋根の四角い家があったり、

Houses of Okinawa屋上や手すりに格子状の装飾があったりします。
そんなこんなで、タクシーの運ちゃんの予言どおり25分ほど歩くと、
着きました~首里城! 守礼門がお出迎えです。
The Shurei main gate

 十四世紀頃までの沖縄は「按司(あじ)」とよばれる群雄が割拠して、互いに勢力争いをしていた。その中から台頭したのが今帰仁城(ぐすく)を拠点とする北山、浦添城を拠点とする中山、島尻大里城を拠点とする南山であった。この鼎立期を三山時代という。
 十五世紀初頭、尚氏が浦添城を襲い中山王を滅ぼして王位を奪い、やがて大軍を率いて北山王を、次いで南山王を滅ぼし、天下を統一、事実上の琉球王朝が誕生した。
 ところが、一四七〇年に「金丸(かなまる)」という人物がクーデターを起こし、尚氏から王位を奪い、即位して自ら「尚円(しょうえん)」と名乗った。そのためそれ以降、旧王朝を「第一尚氏」、新王朝を「第二尚氏」と区別している。この第二尚氏の王朝は、一八七九(明治十二)年に明治政府が軍隊と警察を派遣して城明け渡しを要求、琉球王国が終焉を迎え、沖縄県が成立するまでの四百年間、続いた。その後の尚氏は、廃藩置県後の旧藩主同様、華族に列せられることになる。
(内田康夫「ユタが愛した探偵」)

400年の琉球王朝の栄華をしのぶここ首里城は山城で、小高い丘の上に国王がいる正殿が立っています。

まず歓会門をくぐると、右手に急な階段があります。その階段の途中に、「瑞泉(ずいせん)」とよばれる湧き水が湧いています。首里城にはこのような天然の湧き水がいろんなところから湧いていて、瑞泉は特にめでたいということで泡盛の名前にもなっています。この階段を上りきったところにある門が「瑞泉門」です。

The Kankai-mon gate The Zuisen-mon gate Zuisen, the fortunate spring

瑞泉門をくぐると、左に折れ、漏刻門があります。ここには、漏刻(水時計)や、日時計があったようです。

The Rokoku-mon gate Sundial

その次は右手に建物が見え、中央に「広福門」が開いています。それをくぐると、「下之御庭(しちゃぬうなー)」という広場に出ます。

The Kofuku-mon gate
Shuimui-utaki

首里森御嶽(すいむいうたき)。国王が城外に出る際に必ず立ち寄って祈願する拝所(ウガンジュ)です。城の内外を問わず沖縄にはこのような御嶽・拝所のたぐいがたくさんあって、人々の信仰の対象となっているようです。

 沖縄にはキミマモンという創造神や、火の神、海の彼方からやってくるニライカナイの神、そして祖霊などを崇信する信仰形態が深く根づいている。その神が宿る依代のある一帯を聖地として「御嶽」と定め、石で造った竈(かまど)のような形の香炉が設(しつら)えられてある。それを「拝所(ウガンジュ)」と呼ぶこともある。
 本土では一般に、依代があればそこには神社が建てられているのだが、沖縄の御嶽には建造物や御神体のようなものはないのが本来のかたちだ。人々は「拝所」というにはささやかな、地面の上に直接設えられた香炉の前に正座して祈る。
 沖縄の御嶽の数は数百とも数千ともいわれる。観光地として有名な今帰仁城の中などにもあるが、森の中や海岸といった、何でもないような場所の至る所にあるといっていい。
(同「ユタが愛した探偵」)

The Hoshin-mon gate

奉神門。ここから先は有料になります。広福門の建物の所でチケットを買い、この門のところにいる改札係にチケットを渡します。

奉神門をくぐると、さっそくこのような風景にぶつかります。

The palace and the plaza

これこそが、首里城の中心、国王のひかえる正殿です。その面前にテニスコート2面ぐらいの広さの「御庭(うなー)」が広がっています。日本の宮殿でいう「朝集殿」にあたるもので、ここに群臣が集って国王に拝謁したり、国王の即位の際には冊封使を招き儀式を催したということです。

さて、平安時代に早々に遣唐使を廃止して独立路線を歩んでいった日本と異なり、琉球王国は中国の属国として皇帝に貢物を献上し、挨拶をして、中国の周辺諸国の一つとして認めてもらい、アジアとの貿易を許されてきました。国王が新しく即位する際には、中国の本国から「冊封使」という使者が派遣されてきて、新国王を任命するという形がとられてきたのです。

そういった背景から、琉球王国は中国の一地方でもあり、また日本からもその存立を脅かされながら、忍従と苦渋を強いられてきたといえます。また同時に、陽気な国民性で両国をうまく扱いながら、それぞれ国の文化をうまく取り入れて発展してきたともいえるでしょう。

御庭を取り囲むように建物があり、そのような琉球王国のおかれてきた歴史、さらには日本に編入され、終戦後はアメリカに占領統治された経緯などが、順路に沿って説明されていました。すべてをじっくりと読んで歩くとゆうに1時間半はかかるボリュームでした。

最後は「久慶門」という、正門ではない通用門として使われていた門をくぐって城外に出ます。

The Kyukei-mon gate


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