緊急発言! 1999年の総括と新ミレニアムに向けての提言

はじめに

7の月に「恐怖の大王」が降りてくると言われてきた1999年も終わり,新しい2000年代が始まった。ノストラダムスが予言するごとく,地球が滅亡することはなかったが,1999年はまさに「世紀末」と呼んでもよいような不可解かつ奇怪極まりない事件が数多く起こった。特に,その大多数は12月に集中した。それはまさしく,この日本という国が根本から瓦解しかかっていることを示しており,このままかかる状況を放置せんか,日本は確実に滅亡への道をたどることであろう。今考えられるだけでも,以下のような懸念事項があげられる。

価値観の多様化に適応せよ

第1の懸念事項は,わが国の社会全般にかかわることである。最近はかなり改善されてきているのであるが,まだまだ日本の社会は,国際社会からみて異端視されることが多分にある。その1つは,日本では

単一の価値観しか認められない

ことである。すなわち,「男は仕事,女は家庭」で,男性の場合は,安定企業に定年まで勤め上げ,その途中で家庭的な女性と結婚して持ち家を買い,順調に出世することが人生の唯一の幸福とされていることだ。女性の場合は,高校か短大でそこそこに勉強し,卒業後は腰掛け一般職を数年間やって,20代半ばぐらいで結婚・寿退社し,家庭に入って家事・育児に専念し,ひたすら夫に尽くすのが幸せとされている。そして,この基準に外れた者,つまり適齢期にさしかかっても結婚しない女性などは,周囲からプレッシャーをかけられたり,果てはその人の親までが社会から糾弾されたりする。
人生において何が幸せかというのは,人間の数だけあるのであって,周囲がある特定の価値観を強要することは誤りである。個々人の人生における選択を,周囲の者が軌道修正しようとすることは,せっかく育つかもしれない才能の芽を摘む結果となりかねないことに気づくべきである。

国際感覚を育てよ

2番目の懸念事項は,相も変らぬ

日本人の島国根性

である。大部分の日本人は,約10年間も英語を学習しているにもかかわらず,基本的な英会話さえもすることができない。言うまでもなく,

英語は国際社会のデファクト・スタンダード

であり,それを理解できない,話せない,ということは,国際社会においては,言語的視覚・聴覚・言語障害者も同然であり,日常生活すら困難を強いられる結果となろう。その結果,日本人の生活圏は大幅にせばめられ,日本国内を離れては生きていけないといった事態を招き,それが日本人の島国意識に反映されることとなる。
現状の英語教育は何の役にも立っていないことは明白だ。人間の言語形成期は,おおむね8~12歳ぐらいといわれており,その時期に覚えた言葉を一生ひきずると言われている。従って,真に英語の話せる日本人を養成するためには,

小学校での英語教育が必須

なのである。日本語が怪しくなるのでは,との懸念があるが,日本で生活している以上,そのような心配はまったくないし,仮に日本語がまったく話せなくなったとしても,それはそれでよいではないか。英語さえ話せれば,生活していける場所はいくらでもあるし,またその範囲は,日本語の通じる範囲よりもはるかに広いのである。
英語が話せない以上,日本人はいつまでたっても孤島のモノ言わぬ集団のままである。早急に英語教育の改善を望みたい。

技術大国の原点に戻り,技術者の育成に尽力せよ

第3の懸念事項は,技術大国であるはずの

日本の技術水準の低下

である。原子力臨界事故,H2ロケット打ち上げ失敗,新幹線トンネル崩落事故等にみられるが如く,わが国の科学技術水準は年を追って凋落の一途をたどっている。これは,わが国における技術力が低下していることの証左であり,その最大の原因としては,

  1. わが国に優秀な技術者を育てる環境が整っていないこと
  2. 既存の技術者の社会的地位や待遇が劣悪であること

の2点に集約される。
1番目の原因については,現状の,悪平等に満ちた教育システムにその責めを負わせることができよう。現在の教育は,「人間の能力は,生まれながらに皆まったく同じ」という前提のもとに行われている。したがって,文部省の学習指導要領に則った課程をすべての子供が同程度に理解することが理想とされ,その基準から外れる者は,「異端児」として枠内に収めようと矯正教育がなされる。その結果,能力の高い子供はその才能の芽を摘まれ,能力の低い子供は学習意欲が低下することとなる。
また,最近流行の「ゆとりある教育」などというものも曲者だ。授業時間が減らされ,それでいてトータルで履修すべき量は変わっていないのであるから,いきおい,暗記主体の授業内容に陥りがちである。「何故,こうなるのか」を考える余地を与えず,天下り式に暗記を強いるやり方が,特に理数系科目において顕著にみられるため,理科離れ,科学離れを一層加速させることになるのである。
2番目の原因は,メーカー等に勤務する技術者や,技術系研究所に勤務する研究者,あるいは技術系志望の理科系学生に対する社会的理解が希薄であることから生まれる。言うまでもなく,技術を志す者は,ハードな受験勉強の末に比較的難関な大学の理科系学部に入らなければならない。入ったら入ったで,バイトだサークルだと遊び呆けている文科系学生を尻目に実験だレポート提出だとハードな生活が待っている。さらに研究室に入ると,やれ輪講だ研究だ学会発表だでさらに忙しくなる。研究の合間に授業も受けなければならず,授業の単位を落とすとさらに厄介なことになる。また,理工系の学部生がそれなりの実績をあげるためには,どうしても大学院への進学を余儀無くされるのであるが,世間の人は大学院生であっても「学生」とひとくくりで見ているので,「就職もせずに長いことふらふらして」というふうに見られる。
そうまでしてやっとの思いで卒業したとしても,就職先は

片田舎の女っ気のないメーカーの研究所などで

24時間仕事に追われる。しかも,何の生産活動もしない銀行や証券会社の社員と比べて格安の給与水準でである。その結果,女性と縁遠くなり,必然的に婚期が遅れることになる。結婚したらしたで,

嫁さんに給料が安いと愚痴られながら

劣悪な生活水準を強いられることになる。
日本の屋台骨を支えている技術者がこのような扱いで,どうして彼らのモチベーションが上がるだろうか。モノを作って売って儲ける,これが経済活動の基本のはずなのに,そのモノ作りにたずさわる人間がこのような待遇である。まさに「技術者受難」の時代である。しかも,研究所や開発部門は金を使うばかりで稼がないという理由で,これら部門の

縮小・解体を推し進めている会社

さえみられる始末だ。このような狭量・近視眼的な姿勢で,どうして技術立国日本が維持できようか。
資源の乏しい狭い日本で,1億2000万人もの人間を食わせるためには,技術を外国に売って外貨をぶん取ってくるしかない。その中心的存在であるはずの技術者は,最高水準の地位に位置してしかるべきなのである。少なくとも,同じように技術者としてカテゴライズされている,医師と同程度の給与水準・生活水準は保証されるべきであり,そうしてこそ,日本の未来の技術は安泰となるのである。

官民挙げてセキュリティ対策を講ぜよ

4番目の懸念事項は,わが国の

希薄なセキュリティ意識

である。広くは国防に関することから,果ては個々人の防犯意識に至るまで,平和ボケムードに満ちたわが国では,セキュリティについて論じることすらタブー視されている風潮さえある。

自分の国ぐらい自分で守れ

国防については,わが国は,隣国からの「人工衛星」と称する核ミサイルの射程距離内にあるという現状を鑑みると,相応の防衛体制を敷く必要があるのである。敵からの攻撃から身を守るためには,敵と同程度か,あるいはそれ以上の防衛力を用意しておく必要がある。従って,

日本は,核武装することが必須

である。戦後50年以上もの間,後生大事に守りつづけられてきた「非核三原則」など,理想主義者の机上の空論であり,今では完全に陳腐化しているものである。現に隣国から核ミサイル攻撃の恐怖にさらされている以上,その抑止力としての核兵器による武装は,国防上絶対に必要なものである。
また,いつまでもアメリカの傘の下に甘んじ,「自衛隊」などといった中途半端な組織で「国防ごっこ」などしておらず,

正式の軍隊を組織して

国家防衛にあたらせる必要がある。日本の自衛隊は,外国船に自国の領海内に入られても,相手から現実に攻撃を受けない限り,拿捕も撃沈もできないのが現状だ。永世中立国スイスでさえ,しっかりとした国軍を持っているし,自国を守るだけの軍事力は備えている。いつの世も,弱者はまっ先に被害者になるのである。現に,わが国は周辺国から脅威にさらされているのであるから,そんな国がろくな防衛力も備えていないなど,正気の沙汰とは思えない。
また,軍備を備えていないということは,テクノロジーの面においても日本の最大の弱点なのである。周知の通り,インターネットやGPSなどの,現在の主要技術の多くは,もともと軍事目的で開発されたものであり,それが民生利用に転換されたものだ。言うまでもなく,軍事技術は,極限の条件下での使用に堪えられるものでなければいけないから,いきおい完成度が高くなる。日本には軍隊がないから,日本の技術はアメリカに比べて大きく遅れをとっている,ということもできよう。

IT社会におけるセキュリティ

情報ネットワーク上のセキュリティも,重要な課題である。
日本のインターネット界には,スキルのある技術者が少なく,日本のサーバはハッカー・クラッカーの温床となっているのが現状だ。日本のサーバを拠点として,viriiやスパムメール等が撒き散らされており,その結果,責められるのは日本のサーバ管理者なのである。

行刑制度の抜本的な改革

凶悪犯罪が増えている現状では,それに対する対策も考える必要がある。
特に1999年に多発した犯罪(殊に殺人事件)は,古今稀にみるほどの凶悪かつ不可解なものであり,また無関係な通行人や無辜の幼児が犠牲者になるなど,その無軌道ぶりは我々の予想の範囲を遥かに超えたものであった。これは,既に死んでしまった被害者よりも,まだ生きている犯罪者を救済しようとする,きわめて不可解な日本の行刑制度にその責任の一端があると言わざるを得ない。
残忍な手口で人を殺しても何年か服役すればまた社会復帰できる現行の行刑制度は,明らかに間違っている。人を殺した者は,必ず殺されなければならない。この大原則を見失っては,善良な市民の生存権は保護することができない。

確信的な殺人犯は,理由・状況の如何を問わず
死刑に処せられるべきである。

死刑廃止論者と呼ばれる者がいるが,彼等の99.9%は単なる理想主義者か,あるいは売名行為でものを言っているに過ぎない。もし

自分の娘がレイプされた上に,
バラバラに切り刻まれて惨殺されたとしたら,

絶対に考え方を変えるに決まっている。それは当然だろう。そんなことをされたら,必ず犯人に復讐してやろうと考えるのが人情であり,そういった個人による報復を国家が代行して実施するのが,法治国家における刑罰というものである。
死刑に代わる刑として,生涯刑務所に収監し仮釈放の機会を与えない終身刑を提案する者がいるが,この考えにも賛同できない。終身刑は,1人の犯罪者を,その生涯を全うする数十年の間,国家が面倒を見るということであり,その財源は当然のことながら,我々国民の税金で賄われるのである。犯罪者のために貴重な血税を払うつもりなど,毛頭ない。
死刑は,犯罪の最大の抑止力である。殺人を犯した犯罪者を死刑,それも,極秘裡に執行して事後報告するような今の腰抜け法務省のようなやり方ではなく,

公開処刑

にすることによって,人を殺せば殺されるということを強烈に国民に示し,啓蒙することが必要だ。
個々人が自身を守ることも,考えていかなければならない。今の警察は,国民を24時間体制で警護することができない。しかしながら,今の日本の法律では,個人が護身用の武器を使用することはおろか,所持することさえ禁止されている。このような不可解な制度で,自身や家族の安全を守ることができるだろうか。

個人には,護身具の携帯を認めるべきである。

被害に遭ってからでなければ警察は動いてくれないのであるから,いわれなき暴力被害から自身の身を守るためには,個人レベルで犯罪者に反撃できる最小限の武装は,認められてしかるべきなのである。

殺られる前に殺る

ことが,一次的被害を防ぐ基本原則である。
また,犯罪者によって自分の身にまさに危害が加えられようとしているときや,武器を持った凶悪な押し込み強盗に自分の家屋に侵入されようとしている被害者は,その犯罪者を

現場で処刑する権利

が当然あるべきである。これは欧米先進国ではきわめて常識のグローバル・スタンダードである。犯罪者は,犯罪を犯したその時点で自らの基本的人権を放棄したのであるから,撃ち殺されて当然なのである。

自己責任が基本だ

最後に,個人ひとりひとりの意識の覚醒が,何よりも重要なことである。日本人は,古来から何かあるとすぐにお上に頼りたがり,取り締まってもらったり守ってもらおうと考えがちであるが,お上が

いざというときには何のクソ役にも立たない

ことは,さきの阪神・淡路大震災の際の救援体制(初動体制の遅れはまあ仕方ないとして,事後処理のお粗末さ!)や,大使館が襲撃・占拠されても

アンパンしか配れない有様

をみても明白である。個人の生命や財産は,最後には自分自身で守るしかないのである。自己責任を果たすことこそ,大人な社会人の基本である。

おわりに

現在の日本の混迷は,旧来からの日本的社会システムから,アメリカ型グローバル・スタンダード社会への転換の途中における一時的な過渡応答であり,時間とともに次第に定常状態に落ち着いていくものと思われる。
現在,世界で最も成功しているモデルケースは,アメリカである。アメリカの社会システムに少しでも近付けてゆくことが,新しいミレニアムに向けての日本復興の鍵であると信じる。


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