大学に通っていたころ、最初の2年間はいわゆる「一般教養」の授業をとらなきゃいけなくて、英語や第二外国語や化学、数学から、東洋史学、国文学、国語学までバラエティーに富んだ科目がありました。ほとんどは専門(工学)とは関係ない授業ばっかりで、こんなの取って何の意味があるんだろう、そんなこと教えるぐらいならもっと専門の実用的な科目を教えてくれればいいのに、まだ専門学校のほうが実学を教えてくれるだけましなんじゃないか、と思ったものでした。
でも、社会に出てしばらくして、「人間、最後には教養がモノを言うんだな」って気づいたわけです。実用的なこととか、仕事に関係のあることを身に付けるのは当たり前のこと。それ以上に教養が人間の価値を決めるんですね。
大学の英語の時間に、教材にヨーロッパの宮廷恋愛の話を使っていたのがありました。
ゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの原作で、のちにワーグナーという人がオペラにした話なんだけど、トリスタンっていう騎士と、国王に嫁いだイゾルデという妃がお互いに恋する。当然、妃のほうは人妻なのでこの恋は”不倫”になるわけで、人目を忍びながら逢瀬を重ねるんですが、最後にはお互いが破滅するという形で終わる、というストーリーです。
「そんなのオレの専門に関係ないじゃん」って授業受けてたときはそう思ってたんですが、この話は特に欧米では常識みたいなもので、知らないと恥、というより、常識を疑われたりするんですね。
一見、無駄だと思えるようなことが、人間の奥行きを広げてくれるってことは、けっこうあるもんだな、と思うのです。これを、機械でいう”遊び”、英語に訳すと”play”、可動部分の中のすき間部分のことをいうんですが、人間にもこの”遊び”の中から教養が生まれたりするんですね。ハードワークだけが人生じゃないし、無駄をなくすことが善、というわけでもないんです。
たとえば、休日。私たちは、せっかくの休みだからついつい”有意義に過ごそう”として、わざわざ行楽地に疲れに行ったりしてしまうことがよくありますが、休日って英語で言うとvacation、つまりvacant(空)なものであって、vacationというのは「何もしない日」っていう意味なんですね。休日というのは”何もしないでぼーっとする”のが正しい過ごし方であって、”時間を無駄に使う”ということこそ最高の贅沢なんだと思うんです。
日本人って、そこのところをあまりにもなおざりにしすぎたんじゃないかな〜と思うんです。”無駄を省く”ことに躍起になってしまって、”無駄”な贅沢を楽しむことに罪悪を感じる人が多いというか。でもその”無駄”こそが”遊び”であって、重要な部分だと思うんです。
キャリア形成でも、”遊び”が将来のために役立つことがあったりします。本業に打ち込むだけじゃなく、違う分野について勉強する、異業種の人と会う、あるいは部屋の中でぼーっと考えるだけでも、仕事と直接関係なくても、将来のヒントになるかもしれません。
長い目で見れば、人生で無益なところなんて何もなくて、ただボケーッとしてるだけでも、生きてる限り、何かの役に立つこともあるんだと思います。