Category: Books 本

  • 第131回芥川賞

    19歳と20歳の女性2人受賞で話題をさらった今年の第130回芥川賞だったが、次の第131回芥川賞の選考が行われ、モブ・ノリオ氏の「介護入門」に決まった。 前回はストレートヘアの大学生と茶髪カラコン元不登校無職同棲中という対照的な組み合わせが注目されたが、今度のモブ氏は33歳の男性。本名非公開。スキンヘッドの無職。受賞の知らせに「ま、実力ですな」と一見不遜ともとれる言葉を吐き、記者会見ではマイクをわざと壇上に倒すというギャグを見せる。 今回落選したが、同じく芥川賞候補になった舞城王太郎氏は顔も経歴も明かさない“覆面作家”。同じく候補の絲山秋子氏もいろいろと物議をかもしていることで有名だ。まあこのぐらい癖がないと作家としては勤まらないのかもしれない。 次は全裸にでもならないと芥川賞は取れないかも。 Technoratiタグ: 本 | 芥川賞 | モブ・ノリオ | 介護入門 |

  • 魅惑の酒 アブサン

    残業を終え、会社の人たちと呑みに行った。 高架下のとある洒落たイングリッシュ・バーに入り、メニューを見る。「天国への階段」という名前の、オリジナルカクテルを見つけた。アブサンがベースの、強烈な香りとアルコール度数のカクテル。とはいっても本物のアブサンではなく、ペルノーを使っているそうだが。 アブサン……ニガヨモギを主成分とする、禁断の酒。常用すると神経系が侵され「アブサンティズム」と呼ばれる幻覚を伴う中毒になるという。退廃的な雰囲気の19世紀ヨーロッパでは、ゴッホ、ゴーギャン、ドガ、モネ、ヘミングウェイなど多くの芸術家がこの味に魅せられ、そして廃人になったという。いまでは製造が中止され、代用品としてアニスという薬草が主成分のペルノーにとってかわられた。 さてそんなアブサン(ペルノー)のカクテルだが、居合わせた面々は一口でみんな天国に逝ってしまったようだった。

  • アッシュベイビー

    金原ひとみ「アッシュベイビー」読了。芥川賞作家の金原さんの2作目である。のっけから超過激な修辞とオゲレツな下ネタ用語が乱舞する。伏せ字にするでもなければ、オブラートで優しく包むでもない。その容赦のなさ、作中の表現を借りるならば、さながら読者のケツの穴にゴムなしでチンコをぶちこんで滅茶苦茶に引っ掻き回しているかのようである。レズ、乳児強姦、はては獣姦……「蛇にピアス」など遥かに上回る激烈ぶりに暫し眩暈を感じる。 15年ほど前、「赤痢」という京都の女性4人組のインディーズバンドがあった。そのブッ飛んだバンド名もさることながら、歌い方も凄まじく、ドラムスを乱打しながら放送禁止用語をひたすら連呼するといったものだった。まさしく、「赤痢」の歌を思わせるような「アッシュベイビー」。ストレスのたまっている時に読めば痛快かもしれない。 そうかと思えば、会話文の「」の中を全角22文字で揃え、それを1ページ14行にわたって連続させるといった小技も披露している。ちょっとした遊びのつもりなのだろうが、行末が揃ったページがぽっと現れると「おおー」と感動させられる。言葉を操る作家としてのアピールが、そこにある。 人に対して心を開くことの出来ないキャバクラ嬢、アヤは、ガキが大嫌い。近所の小学生を見ると、殺意を覚えるほどである。そんなアヤと同居している男、ホクトは、ある日、親戚の子供である女の赤ん坊を引き取ってきて、夜ごと陵辱を始める。アヤは、無垢な赤ん坊を見て、ふと殺意が沸いてくる。しかし、その殺意は、実は自分自身に向けられたものであることに気づく。その赤ん坊は、実は自分自身の投影だったのである。 そんな中、アヤは、勤め先でホクトの同僚である村野さんという男性に出会い、一目惚れする。しかし村野さんはつかみどころがなく、アヤの気持ちに気づいているのかいないのかわからない。アヤは、村野さんに対する想いをどんどん募らせていき、果ては彼の手で殺してもらいたいとまで考えるようになる。ホクトに陵辱されている赤ん坊のように……。 村野さんとセックスをし、籍まで入れたものの、殺してもらえるどころか、二人の距離さえ縮まらない始末。アヤは自暴自棄になり、衝動的に近所の鶏を捕まえて頸をへし折ったり、ウサギの耳をちぎったり、勤め先の同僚ホステスをボコボコにぶちのめしたり、見舞いに来た仲間にまで罵声をぶつけたりして、どんどん破滅していく。 僕は、ふと新選組の芹沢鴨を思った。彼は一度死罪を覚悟して入獄したものの、許され娑婆に戻った。そのあとは死に場所を求めて日々無頼な人生を過ごし、新選組に身を投じたあとも放蕩三昧の生活を送り、最後には近藤勇らに殺されてしまったのだが、死を志向する者が衝動的な破壊行動に走ってしまうということは、ありうることなのだと思った。 将来に希望をもてない若い人たちの願望は、破滅と死しかないのか。アヤの悲痛な叫びが痛々しく心に突き刺さる。だが、どうすることもできないのが現実なのだ。 すべてを失ったアヤは、身ひとつで村野さんのマンションにたどり着く。村野さんはシャワーを浴びに行き、リビングに独りぽつんと残される。村野さんの姿が目の前から消え、それとともに、アヤの心は灰となって燃え尽きた。その姿は、あの赤ん坊そのものだった。愛も死も懊悩も何も認知できない、何もない世界、否、これらを超越した高いステージの世界へと解き放たれたと考えるべきなのかもしれない。 作品は、文の途中でぶつ切りになった状態で終わっている。その続きがどう綴られるのかは、読者一人一人にゆだねられている。 Technoratiタグ: 本 | 金原ひとみ | アッシュベイビー |

  • 翻訳入門

    辻谷真一郎「翻訳入門」を読む。プロの翻訳家を目指す人のための、翻訳の考え方と実践方法についての解説書である。この本は単なる翻訳の技術の指導書ではなく、英語を日本語に翻訳するにあたっての考え方、心構えから説いている。 著者は、翻訳とは「日本人ならどう言うか、どう書くか」を基本とするべきだと説く。たとえば、I am a teacher. という文をどう訳すか。受験英語に慣れた感覚で見ると、「私は先生です」という訳にしたいところだが、普通、日本人が自分のことを「先生」と言うかどうか。「私は教師をしています」と言うのではないか。いや、もっと簡単に「教師をしてます」で良い。要は、英語の翻訳だからといって〈よそいきの日本語〉を使うのではなく、我々が本来使っている日本語を使って表現するべきなのだということである。 著者は、この手法をバドミントンになぞらえて説明する。バドミントンでは、シャトルをラケットで打つとき、ラケットの面を相手のコートに向け、シャトルとラケットを同時に見ながらラケットをシャトルに当てていく方法が最も簡単である。それに対して、包丁を持つような握り方でラケットを持って打つ方法があり、このフォームは物を投げるときのフォームに近いため、前者の打ち方よりも強い球を打つことができるので、実戦向きである。その代わり、この「包丁持ち」は、うまくなるまでは空振りが多い。そのため、いざコートに立ってシャトルを見ると、ついつい当てなければと思う気持ちから、前者の「フライパン持ち」になってしまうことが多い。 翻訳でも同じことで、英文をそのまま逐語訳していくやり方が「フライパン持ち」にあたる。簡単だし、とっつきやすいのでついついそのようにしたくなりがちだが、そのような癖が一旦ついてしまうと、あとで矯正することがむずかしくなり、途中でいつか壁にぶちあたることになりかねない。翻訳家として世に出るためには、最初は空振りしても、失敗しても、ひたすら最終的にめざすゴールだけを考えて練習しなければならない、それには著者の提唱する「包丁持ち」、つまり最初から本来の日本語で表現するように翻訳する練習を積む以外にはあり得ない、と説いている。 「コンピュータのオペレーティング システム、ソフトウェア プログラム、およびハードウェアの利用可能な最新の更新を入手してください。Windows Update は、コンピュータをスキャンしてお使いのコンピュータのためだけに選ばれた更新を提供します」などと平気な顔をして書いているどこかの会社の担当者に、この本を読ませたくなった。

  • ウェブログ・ハンドブック

    Rebbeca Blood著 yomoyomo訳「ウェブログ・ハンドブック」読了。ウェブログの概要から書き方まで、特定のウェブログツールに偏らず、一般論を中心とした解説とアドバイスが中心であった。 この本でポイントとなっていたのは、「とにかく、自分の書きたいときに、書きたいものだけを書くこと」を強調していたことだろう。個人でブログを運営するときには、最初は自分が書きたいことを書いているのだが、だんだん読者が増え、固定客がつくようになってくると、そのうち自分の書きたいことよりも、読者に受ける内容を書かなければという強迫観念に取り付かれてしまい、いきおい大衆に迎合して自分を見失ってしまうことが往々にして起こる。そうなってしまうと、ブログを書く本来の楽しみが失われてしまい、一体誰のためにこんなことをしているのかわからなくなってしまう。これでは書き手も読み手も不幸だ。著者は、このように自分らしさを失ってしまったブロガーには、しばらく休養をとることを勧めている。休養をとったあと、再び〈書きたい〉という気持ちになったなら、そのときにまた復活すればよい。ブログとは、不特定多数を楽しませるためではなく、1人のオーディエンス、つまり書き手自身に向けて書くべきであると主張している。 もう一つ忘れてならないこととして指摘されていたのが、「ブログに一旦書いたことは、あとから訂正がきかない」ということ。確かにブログツールの編集機能を使えばあとから修正することはできる。しかし、修正するまでの間にサーチロボットにキャッシュされてしまえば編集前のテキストがどこかに残ってしまうし、第一、書いた内容を、あとから事情が変わったからといって、その履歴を残すことなく簡単に修正したり、削除して最初からなかったことのようにできてしまうようでは、媒体としての健全性に欠けるではないか。ブログに一旦書いた内容を修正するときは、リライトしたり削除したりするのではなく、追記という形で補足するのが正しい使い方である、というのである。これは独りブログに限らず、ウェブサイト全般にいえることなのだが、ひとたび発言するからにはその内容には最後まで責任をもつべきである、という著者の主張は、首肯せざるを得ないものがあった。 毎日コミュニケーションズ。本体価格¥1,905。

  • 続・ものを書くこと

    NHKのBS2「週刊ブックレビュー」に、先日芥川賞を受賞した金原ひとみさんがゲストで対談していた。 NHKなので、あまり過激なことは言わず、多分にぶりっ子風の話し方をしていたが、対談全体を通して感じたのは、彼女もまた、「ものを書く」ということに魅せられた一人のようだ、ということだ。 こんなところでちょろちょろっとゴミみたいな文章を書き散らしているだけの僕が語るのもおこがましいのだが、ものを書くというのは、以前もこのブログで触れたように、一番手っ取り早くコストのかからない表現手段で、わりと誰にでも始めやすい。金原さんも、たまたま書くことが好きで小説やら短編やらを書くようになり、そこへ天性の才能がジャストフィットして、ついには大きな花となって開いたということだろう。「一生、書くことはやめないと思います」と語る彼女。人生としてはこれにまさる幸せはあるまい。 あまり若いうちから「物書き」をやるのはよくない、という意見もある。書くという仕事は最高に集中力を要求される職業で、その集中力を何ヶ月、何年という長期間、維持しなければならない。そうやってずっと集中状態で執筆に専念し、やっと作品を書き上げたあと、それまで出っぱなしだったアドレナリンがおさまらずに、ハイなままになってしまって、それを自分でコントロールできなくなってしまうことがあるらしい。そうなると、精神的なバランスが崩れてしまう。 僕もこのブログを夜中に書いていると、だんだん目がさえてきて書き終わった後も眠れなくなったりすることがある。たかだか数千字程度の短い文章を書いてさえもそうなのだから、ましてや長編小説など書く作家さんなどは、こんなものではなかろう。 そして、集中状態をリセットするために、アルコールを入れたり、クスリに頼ったりすることになり、それでもおさまらないと、いよいよ心の病を発することになる。そういえば、昔から作家といわれる人の自殺率は半端じゃない。 金原さんは、「書くことは小さいときから自分の生活の一部で、いわば日課のようなものだ」とさらっと語る。自分の「こころ」に自分で折り合いがつけられるというのは、相当の精神力の持ち主だと感心させられる。 彼女は小学生時代に不登校に陥り、そのあとは歌舞伎町を徘徊してパチスロに明け暮れ、配管工の彼氏と同棲して今に至るとのこと。「2ちゃんねる」風に言えばまさに絵に描いたような「ドキュン」と言えるのかもしれないが、物書きというものは大体において破天荒なものである。僕のようにどちらかというとボンボン育ちで、レールの上をある程度外れずに生きてきたような人種からすると、彼女たちのような自由な生き方がある意味、羨ましかったりすることもある。 「がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃうし、何でも流せる人っていいなあ……」と悪びれず言ってしまう態度に反感を持つ向きもあるようだが、若いからこそ許される、20歳の無邪気な発言と鷹揚に構えたい。これから、密度の濃い体験をいろいろ重ねて、人間としての深みの備わった作品を何十作も出してほしい。 Technoratiタグ: 本 | 金原ひとみ |

  • ちょっと死相出てた

    今月号の「文芸春秋」の売れ行きが著しいらしい。20歳と19歳という史上最年少の女性2人が今年の芥川賞を受賞し、その作品が掲載されているのだ。純文学など高校以来とんとご無沙汰だった僕だが、このたびの話題性に乗じて、彼女たちの作品を読んでみた。 まず、金原ひとみ「蛇にピアス」 身体改造、刺青……そのあまりのエキセントリックなあらすじに当初は嘔吐感を催すほどの抵抗を感じたのだが、実際に手にとって読んでみるとそうでもなく、19歳の女の子のピュアな愛の物語という体をなしていた。主人公が同棲している彼がもっている、先端を二つに裂いた舌(スプリットタン)に憧れて自分もその舌を得るためにピアスで自分の舌の穴を拡げ、また店で出会った人の麒麟の刺青に感動して自分もその刺青を入れる。あまり書くとネタバレになるのでこのへんにしておくが、好きな人の属性をすべて自分の中に取り込みたい、愛する人に近づきたい、というひたむきな想いが、痛いほど伝わってきた。これは著者の金原さん自身の実体験にも裏打ちされたものかもしれない、と思い、切なささえ感じられるほどである。 プロットは基本に忠実に、導入部ではピアスの拡張やスプリットタンの説明を通してうまく読者をこの世界に誘導し、登場人物のキャラクター設定、主人公の周りで起こるいろいろな出来事の描写を経て、クライマックスに持ってくる。そのあとの結末の描き方が少し理解できなかった面もないではなかったが、小説としてはおおむね面白く読めた作品だった。作中のこれでもか、これでもかという過激で露骨な性表現がかえって小気味よく、パンクな世界を引き立たせていた。 僕はこの作品、単行本も読んでみたことがあるのだが、ラストシーンは文芸春秋のほうでは若干書き換えられている。個人的には文芸春秋バージョンのほうがうまくまとまっているように感じたのだが、どうだろうか。 次に、綿矢りさ「蹴りたい背中」 こちらのほうは、申し訳ないが、何が云いたいのかよくわからなかった。まず文の流れが単調で、読んでいて退屈する。文中の過剰な比喩やレトリックが多すぎてお腹いっぱいになる。なんとなく集団に染まるのを拒絶し、世の中を斜に構えている「私」とアイドルオタクの「にな川」との交流を通じて、「私」の「にな川」に対する心の変遷を描いているらしい、ということは読み取れるのだが、全体的に文体がさらっとしすぎていて、「蛇にピアス」のように読後に澱のように残るものがない。退屈なのを我慢してしばらく読み進んで、ようやっと少しノッてきたな、と思ったら、いきなり〈了〉と書かれていて、「あれ? もう終わり?」と拍子抜けした。全体を通してこの作品のメッセージを読み取れなかったのは、悲しいかな生粋の理科系人間を自認する僕の文学的感受性の欠如に因るものか。 批判ばかりでも公平でないので、少し良かった点を書いておくと、相手の男子の名前を難しい漢字の「蜷川」ではなく、ひらがなの「にな川」とした点は、読者にちゃんと読んでもらいやすく、印象づけやすいという点で、プラス点ではなかっただろうか。 http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20040220i413.htm 今日は芥川賞の授賞式。「話題作りのための受賞」と揶揄する向きもないではないが、これを機に、ふだん活字とは縁のなかった人が、文芸作品の世界に入り込む糸口にでもなれば、それだけで文春側の作戦勝ちというものだろう。 Technoratiタグ: 本 | 芥川賞 | 綿矢りさ | 金原ひとみ | 蹴りたい背中 | 蛇にピアス |