震災から20年


1995年の今日、大震災が神戸・阪神・淡路地域を突然襲い、6000人以上が亡くなり、何百万もの家や建物が破壊されました。そのとき私は神戸の東にある兵庫県西宮市の実家に住んでいました。このエントリは20年前に震災が起こったときに私が経験したことの記録です。


私は当時大学三年生でした。日中は講義に出て、学校が終わると自宅の二階にある四ヶ月前に買ったオリベッティのウィンドウズ3.1のPC(CPUはi486SX/33MHz、HDDは540MB、メモリ12MB)で毎日宿題をやったり、2400bpsのFAXモデムでパソコン通信につないだりするのが楽しみでした。私は両親と兄と一緒に住んでいました。姉は結婚して、夫婦と子供二人(三歳と三ヶ月)とで西宮の甲陽園に住んでいました。家から一、ニキロ離れたとこでした。
1月16日の夕方、大震災の予兆を感じました。この日は三連休の最終日でした。私はPCの前で、NIFTY−Serveにアクセスしていたんですが、雨戸が突然少しガタガタいったのが聞こえたのです。最初は何かよくわからなかったんですが、これは地震かもと気づいたのでした。当時、私がいた地域で地震というのは非常に珍しいことでした。私は部屋のラジオをつけ、地震があったとか何とか言ってないか聞いてましたが、そういうことは何も言ってませんでした。何か大きな大変なことの前兆ではないかと嫌な予感がしたのでした。
翌朝5時46分は、私は布団の中で、目が覚めそうになっていました。最初に、地面にかすかな揺れがありました。私はすぐ気付き、昨日と同じ地震が来たと思いました。ところが、その揺れはすぐにおさまりませんでした。物理で習う単振動の発散のように、振幅がだんだん大きくなり、ついにはゴォーッという轟音とともにかき回されるような揺れになったのでした。
「おいおい、なんやねん、これ〜」と心のなかで何度も叫びましたが、動くこともできず、とにかく身をかがめてただ揺れに身をまかせるほか、どうしようもなかったのでした。PCのディスプレイが落ち、吊っていた電灯が落ち、ワードローブが落ち、テレビとステレオコンポが落ち、本棚から無数の本たちが頭めがけて降ってきました。
実際には、揺れは10秒から20秒ぐらいだったのですが、私には30秒とも1分とも感じられました。その地区の震度は5+か6だったようです。私は最初、驚きと虚無とがないまぜになったどうしようもない心境だったのですが、すぐに、これは大変なことになってしまったと気づいたのでした。まず、一階の寝室に寝ていた両親と、二階の別の部屋で寝ていた兄の安否が気になりました。それで、足もとに倒れこんでいたワードローブやらステレオコンポやら本やらをどけて、階段を降りて「おーい、大丈夫かぁ!?」と叫びました。両親は無事に寝室から出てきましたが、兄が家具の下敷きになって出てこれませんでした。私は兄の部屋のドアをノックし、声をかけてみましたが、返事がありませんでした。ドアを開けようとしても、タンスや本棚が部屋の内側で倒れこんでいて開きませんでした。両親がやってきて、外からドアを何度も叩いて大声で呼びました。しばらくして、返事が聞こえてきて、兄が部屋から自力で這い出てきました。どこも怪我はしていませんでした。
家族はみな無事でしたが、姉家族がどうしているかわからず、私たちは家を出、まだ外が暗い中、ガレージに向かって歩いていきました。家の前の道路には大きなひびが入っており、そのひびからガス臭いにおいがしていました。車に乗り込み、カーラジオを聞きました。近畿地方でさきほど大きな地震があったと報じていましたが、それ以上の情報は、そのときにはありませんでした。数分後、追加情報が入ってきて、淡路島で2人が死亡したと言っていました。姉家族のマンションに向かう道すがら、途中の道ぞいにある家や喫茶店は、二階が一階を押しつぶし、一階と同じ高さまで落ちてしまっていました。そんなのを見るにつけ、これで死者が2人だけってことはないだろうと思いました。
甲陽園に着いて、姉家族に会うと、元気にしていました。姉は私たちがどうしてそんなに心配しているのかと驚いていました。甲陽園はそれほど被害がなかったらしく、ことの深刻さがわかっていないようでした。
家に戻ると、近所の人たちが、寝巻の上に上着をはおった姿で、家から出てきて集まっていました。みんな少し困惑していたようでしたが、テレビで報道するような修羅場ではありませんでした。むしろ、非常に平和的な雰囲気でした。が、その平和的な雰囲気は、私の家の三軒左どなりの家から突然聞こえたミシミシ、バキバキという異音で打ちやぶられました。その家の二階部分がガラガラと崩れ落ち、一階部分をつぶしてしまったのです。まわりの人たちはびっくりして、「大丈夫ですかあ!」と叫びながら、その家にかけよって行きました。同時に、その倒壊した家の反対方向から、黒い煙がたちのぼってきました。もし火がついて燃え広がったら、こんなときに消防車などすぐには来られないだろうから、大火災になると思って身構えましたが、ラッキーなことに、煙はすぐに消え、また崩れた家の住人はその日は二階で寝ていたようで、助かったのでした。
日が昇り、すっかり朝になりました。私はトイレに行きたくなり、家のトイレに行きました。そのときは水を流せましたが、水道管が破裂し水道が止まっていたので、タンクに水がなくなるとトイレは使えなくなりました。1時間ほどすると、外にいた人たちは、家に戻る人あり、まわりのようすを見に行く人ありと、散って行きました。家に入れない人たちは近所の中学校の体育館に避難しました。周辺の地域のようすを見に行った人たちが戻ってきて、「苦楽園はめちゃめちゃひどかった」「マンションが崩壊して、這い出した子供が、まだ中で下敷きになっている両親を泣きながら呼んでいた」などなど、いろいろな情報を提供してくれました。まだこのへんはましなほうだったらしいです。
近所の家の崩れるのを見ると、怖くて家に入る気にもなれず、私たち家族はそれから数時間、車の中で過ごしました。兄が自分の部屋から携帯テレビを取ってきてくれたので、それでNHKのニュースを見ました。中須佐町や東灘の火災のようすやら、脱線した阪神電車やら、深江の高速道路が横倒しになっている現場などが、テレビでうつしだされていました。この映像は、数年前に雲仙岳の大噴火があったとき、日本中の目が一地域に注がれているシーンを思い起こさせました。今回は、私たちの毎日住む地域が全国の注目の的になっているのでした。私はなんだか有名人にでもなったような、変な感じがしました。とはいえ、雲仙の被災者のようにこれから何ヶ月も避難所暮らしになるのかもと思うと、不安を覚えたのでした。
数時間過ぎて、私たちは空腹になってきました。家は何時間も崩れなかったのでもう入っても大丈夫だろうと思い、玄関に一番近い部屋を片付けて四人分のスペースを作り、そこで食事の準備をしました。母が台所から餅を持ってきて、オーブントースターで焼いてみんなで食べました。食事が終わると、めいめい部屋の片付けにかかりました。リビングのコーナーに置いてあった21インチのテレビは、吹っ飛んで窓ガラスを突き破って外に飛び出していました。食器棚のガラスコップやカップや皿は、ガラス戸を破って落ちていました。マーフィーの法則が言いそうですが、安物の食器は落ちても割れていませんでしたが、めったに使わない高価なものに限って割れていたのでした。私は二階に上がり、自分の部屋に入りました。ガラスは割れておらず、部屋も危険な状態ではなかったのですが、他の部屋同様、めちゃくちゃになっていました。いつも寝ているときに頭を置いているところに、重たいタンスが崩れ落ちていました。寝相が悪かったのが幸いしたようで、地震が起きたとき、いつもの場所より少しだけ横にずれたところに寝ていたので、頭への直撃を免れたのでした。もし頭の上にそのタンスが落ちていたら、私は生きていなかったかもしれません。とりあえずステレオコンポ、テレビを元の位置に戻し、落ちていたディスプレイをPCの上に置き、床に掃除機をかけました。電気はまだ完全に回復しておらず、掃除機がときどき止まり、しばらくすると動き出し、次の瞬間、また止まり、そして動き、を何度か繰り返しました。部屋の片付けをしつつ、テレビをつけました。当時の総理大臣の村山富市首相が神妙な顔つきで、近畿地方で甚大な災害が発生したらしい、近畿地方を救援するため、できることは何でもすると述べていました。余震がときどき起こりました。
数時間すると、電気は安定して供給されるようになりました。私はPCをつけました。PCは正常に起動しました。PCにスキャンディスクをかけると、ハードディスクは無事でした。そして、NIFTY−Serveにつなぐと、地震関連の特別掲示板ができていて、地震についての情報交換ができるようになっていました。私はいつも出入りしているフォーラムのメンバーに、自分は無事だと書き込みました。テレビは全局、震災特別番組になっており、死者数がリアルタイムで表示されていました。最初は200〜300人でしたが、すぐに500人を超えました。
夜は、玄関に一番近い部屋に家族みんな集まり、部屋に電気ホットカーペットを敷き、その上に布団を広げて、大きな余震が来たらすぐに家から飛び出せるようにしました。
「うちはラッキーやね。」と父が言いました。「まだ家が残ってるから、こうして中にいて温かいカーペットの上で寝れる。家が壊れたら、避難所で、暖房もない寒い部屋で我慢しておらんならん」
またこうも言いました。「戦争してる国の人らはかわいそうに…。こんな生活が何年も続いとんやろなあ」
夜が明けると、新聞社やらテレビ局やら自衛隊のヘリコプターが上空でブンブン飛び交っていました。テレビは昨日同様、被災地の映像を放映していました。朝のニュースで、前の日は運休していた鉄道が一部動き出したと言っていました。阪急神戸線は西宮北口〜梅田間のみ復旧していました。阪急千里線と京都線はOKだったので、大学に立ち寄ってみることにしました。梅田に向かう電車には、神戸から長いこと歩いて疲れ果てた人たちがシートに座っていました。彼らはまた歩いて神戸まで帰らなければならないのかと思うと、ただただ同情するばかりでした。
大学やその近所は、家とはまるで別世界でした。そこは以前とほとんど変わっていませんでした。教室では教授が講義をしていました。ただ、神戸方面からの学生だけが出席していませんでした。授業が終わると、家で待つ家族のために食料を調達することにし、近くのスーパーに寄ってカップラーメンかパンでも買っていこうと思ったのですが、そんなものはもうとっくに売り切れになっていて、ハンバーガーショップでハンバーガーを買って、途中強盗に食料を奪われないように気をつけながら家に戻ったのでした。
次の日は、大学に行く前に、家のまわりの地域のようすを歩いて見ることにしました。ある場所はひどくやられており、ある場所はそれほどでもありませんでした。苦楽園は、富裕層が住みたがる地区なのですが、普通の庶民の家はほとんど壊れているのに対し、お金持ちの豪邸の多くは無事だったのでした。苦楽園を南下して、夙川方面に行くと、被害はさらに深刻になっていきました。全壊した家々、倒れた電柱、そして90度横を向いた信号機(怖っ!)まで…。そこに人の気配はありませんでした。みんな避難所に入ったか、町から出て行ったんだと思います。瓦礫の横にときどき木の立て札が立っていて、「XXXに避難している」とか「母死去」とか、書いてあるのでした。だんだん気がめいってきたので、この時間の止まった現場から早く逃れるように西宮北口まで早足で東に歩き、そこから阪急電車に飛び乗って、辛い状況をつかの間だけ忘れられる大学に向かいました。
講義が終わると、梅田まで行きそこから阪神電車で甲子園まで行って、そこから先は電車がないので歩いて家に向かいました。甲子園球場はそれほど被害がないように見えました。球場から国道43号線を500メートルほど歩くと、国道43号線の上を走る阪神高速の高架がV字型に落ち込んでいて、その谷間にバンが落ち込んでいたのが見えました。これはショッキングでした。
夜のニュースで、神戸の長田区で火事が起こったと報じていました。ある人は、倒壊した自分の家の瓦礫の様子を見に行った人が紙を燃やして明かり代わりに使っていて引火したと言い、またある人は、倒れた電柱にぶら下がっていた電線がショートしたためだと言っていました。正確な理由は誰にもわからないのですが、とにかく長田は燃えていました。それは「はだしのゲン」に出てくる、原爆で燃える家々を思わせるものでした。現場を伝えていたリポーターは、「これはもはや神戸ではない」とまで言いました。
長田の大火は三日三晩続き、地上のすべてのものを焼き尽くしてから、消えました。
地震から一週間後、両親、兄、私は、大阪府堺市にある祖母の家に疎開しました。叔母が近くで大学生向けに下宿屋をしていたため、空き部屋に私たち一家を一週間泊めてくれることになったのでした。両親は祖母の家に、兄と私は下宿の一室に泊まりました。そこはガスが使えシャワーも好きなだけ使えたので、とても快適でした。駅に近いところにあったので買い物も便利でした。とはいえ、後期試験を数日後に控えていたため、遊びに出る気にもならず、試験準備をしなければならなかったのでした。夜はテレビの震災関連特番を見ていました。コマーシャルはありませんでした。
一週間して、私たちは再び西宮に戻ってきました。たまたま水道局の職員が隣の家の水道管の修理をしていました。母がその職員を呼び止め、うちの水道もついでに直してくれるように頼み込みました。通常の方法で申し込むと後回しにされるので、今回水道が早く開通できてラッキーでした。とはいえ、下水管はどこか壊れていたので、トイレはまだ使えないままでした。これは後ほど修理してもらいました。
ガスはすぐには復旧できないので、風呂やシャワーはお預けでした。ガスを再開させるためには、ガス会社から家までのガス管を全部チェックして、どこもガス漏れがないことをたしかめてからでないといけないからです。家の風呂が使えなかったので、ときどき近くの銭湯に行ったり、親友の家に寄って風呂に入らせてもらったりしたのでした。その親友は大学のクラスメートなのですが、震災時は豊中の下宿に住んでいたところ、震災で下宿が倒壊したため、吹田に別の部屋を一日で見つけ、引っ越してきたのでした。彼の新しい部屋は、最寄り駅からは少し離れていたものの、車を持っているので、それで通学できるため、何も問題ないのでした。
震災後、初めて神戸を訪れたのは、2月の下旬のことでした。神戸に行き来する鉄道路線は大部分まだ不通だったので、阪急今津線で宝塚へ行き、そこからJR福知山線で三田まで行き、そこから神戸電鉄と北神急行線で神戸に入りました。新神戸で電車を降りたときは、マスコミが言うほど被害は大きくないなと思っていたんですが、フラワーロードを三宮方面へ歩いていくと、建物の被害がだんだん大きくなっていき、三宮では、そごうのビルが一階が完全に押しつぶされて入口のシャッターが事故車のようにひん曲がっていました。三宮駅からそごうのビルを結ぶ歩道橋の上には、尋ね人の情報やら、ボランティア情報やら、被災地の内外からのメッセージなどが書かれたビラが無数に貼られていました。
街は、完全にその機能を停止していました。都会の中心というのに、恐ろしいほど静かでした。私が見たのは、着の身着のままで無表情に歩きまわる人々だけでした。被災した建物から舞い上がる粉塵が空中を漂い、それがときどきコンタクトをはめた私の目を傷めるのでした。埃を防ぐためのマスクをしている人もいました。三宮から街を横切って元町まで歩き、そこから地下にもぐって、地下にある阪神電車の元町駅から高速神戸まで電車に乗りました。三宮は被害が深刻でしたが、かたや元町やハーバーランドのような他のエリアは比較的無事に見えました。
JR神戸駅まで歩いて、そこからJRに乗って長田区の鷹取駅に行きました。鷹取に着く直前に車窓の風景が一変し、区画ごと焼けてなくなっている地区が二、三あったシーンを、私は忘れることができません。鷹取で電車を降りると、眼下には死の世界が広がっていました。そこにあったのは、建物の焼け焦げた匂い、瓦礫からもうもうと舞い上がる砂ぼこり、家を焼け出されて近所の公園でテントを張って暮らす家族たち、そして別の公園でのチャリティーイベントのようなもの、そんなのばかりでした。菅原市場に立ってみました。ここは、大火災で何十人も亡くなったとしてどこのテレビでも報道されていた商店街でした。すべて燃え尽きてしまって、そこには何もありませんでした。店だったところの地面に花が置かれていました。
JR兵庫駅まで歩き、そこからJRやら私鉄やら、活きている路線をうまく乗り継いで三宮まで戻りました。次に私の生まれ故郷の灘に行ってみようと、三宮から2~3キロの道のりを歩きました。周囲の家は、屋根の瓦が落ちて青いビニールシートがかぶせられているだけで、それほど目に見える被害はみられませんでした。私が小さい子どもの頃、よく母親に手を引かれて行った市場にも行ってみました。どの店もシャッターは下ろしていましたが、建物は無事でした。だんだん疲れてきて、とりあえず神戸の街の様子はわかったので、家に帰りました。
震災後、しばしば神戸を訪れました。私はそれまで、どちらかというと神戸が嫌いでした。子供の頃に引っ越して出て行ったので、そのあといくら街が発展しようと、もはや神戸市民ではなく、その恩恵にあずかれない立場だったため、妬む気持ちからでした。そういうこともあって、それまで街に買い物とかで出るときには、大阪のほうによく出ていました。しかし震災があってからは、できるだけ神戸に足を運ぶようにし、神戸で買い物をしてそこにお金を落とせば、少しでも復興の足しになるだろうと思ったので、何か買い物をすると言えば神戸に行き、また何をするでもないがただうろうろ散歩するだけという時にも神戸を訪れました。電車はところどころ途切れていたので、その区間は歩き、街並みや人の息づかいに触れたのでした。街は、徐々に復興していきました。昨日まで閉まっていた店が今日から開きはじめたり、鉄道も少しずつ復旧していったりしました。そういったことがたまらなく嬉しかったのを覚えています。
この災害は私を大きく変えました。私の心、哲学、人生観、考え方、何が最も価値のあるものなのか、すっかり変わりました。形あるものは、あるとき突然壊れたり、消えたりするかもしれないことを知りました。今日生きている人も、明日死ぬかもしれないということを知りました。やりたいことは今日やり、行きたいところには今日行き、ほしいものは今日買ってしまって、明日まで延ばさないこと、明日は生きていないかもしれないのだから、と悟りました。4年前の311で価値観が変わったという日本人が多いですが、私はすでに20年前にこの教訓を得たのでした。もう災害に遭ってしまった人、そしてこれから遭うかもしれない人のために、私が経験から何を習ったのかを、ここに書き記しておかなければならないと、思うのです。


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